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更新日: 2013年4月6日

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気が付けば18年たってた。
お母さんが亡くなって18年。
私のおかあさんは私が生まれる前から
難病で入退院の繰り返しだった。

お父さんは気が短く、ギャンブラーで
うちはいつも喧嘩ばかりの家で
姉もいたが、よくお父さんにはなぐられていた。
お母さんもそうだった。
ほんとに苦痛で保育園時代の記憶がきえない

嫌な記憶ってほんと心にのこるんですね・・・

そんな貧乏で難病母との家庭は

けして楽しかったとは思えなかった。

でも、お母さんはちいさいころから
私たちのためにケーキをやいてくれたり
ミシンで服を作ってくれたりしていた。
おかあさんは優しかった。
雷がなれば怖くてお母さんに泣きながらだきついてた
記憶がある。

でも、小学校にあがったとき、
ランドセルはもちろん
机もお下がりだった。
1年生の時、自分がもってる好きなおもちゃの絵をかく授業が
あった。
私はおもちゃをもっていなかった。
だから
欲しいおもちゃの絵をかいた
爪楊枝が必用なとき
うちには爪楊枝もなく
朝から父におこられ
父が細い棒をけずってそれをもっていった。
恥ずかしいとかそんなレベルではなかった
貧乏というだけでいじめにあっていた
でも、あたしは我慢できた。
親にも絶対いわなかった。
授業参観にも1度もきてくれたこともなかった。
これ以上、お母さんに心配をかけたくなかたんだと思う

そして、中学に入った
私は案の定道をはずした。
やってはいけないことを沢山やって
警察にもお世話になった
でも、おかあさんは泣いてた
口はうるさかったけど
あたしの方が強かったかな。

一度喧嘩になったとき
お母さんを突き飛ばしてしまった。
お母さんはたおれて
お父さんがきてなぐられた。

反抗期のあたしには
そんな家庭がいやでいやで
家出を繰り返してた。

高校にはどうしてもいってほしいと
お母さんにたのまれたので
下の下の高校にいった。
そこではいじめはなかった
周りではあってたけど
あたしはなかった

そしてアルバイトをはじめた。
週7で。家にいたくなく
とにかく安い時給ではたらいて

家に帰れば母との喧嘩は絶えなかった

でもね、

ほんとはね
公衆電話のまえで
10円玉をにぎりしめて
「さっきはごめんなさい」

そういいたかった
でもいえなかった
なんで謝れないんだろう。

今となってはそう思う。

高校を無事卒業し
社会人になった。

仕事はお給料やすかったけど
楽しかった

飲みにいったり
色んな人との交流もできて。

家もいやだったから
一人暮らしをはじめた。
お母さんは寂しそうだったけどね。

そして社会人になんて3年後かな
結婚をきめた人ができた
あわせようと思ってた矢先・・・

父から電話があった・・・・

「もうあと、2,3日しかお母さんもたない」と

は?また?と思った。

それは物心ついたときから
お母さんはいつ死ぬかわからないと
言われ続けてきたから。

でも、とにかく帰るよといって

車で高速をとばしていた
車のなかでは自然と涙がでた。
ウソだ。絶対嘘だ。
だってあたしまだ彼氏あわせてないよ
まってよ。まだだよ~
と、頭のなかぐちゃぐちゃだった
涙で前がよく見えない

でも2時間とばして
病院へつたら・・・

姉夫婦と親戚がいた・・・

お母さんのところへ走りよって
大丈夫?大丈夫?と
何度もはなしかけた。
まだ意識はあった。

そして、担当医によばれた

CT画像をみせられて
驚いた。
お母さんの体の中は・・・・
もう固まっていた。
まったく機能していないと・・・・
医師からいわれた言葉は
あと2,3日です
延命はどうしますか?

お父さん
姉、私
もうわかっていた
延命しても植物状態になるだけだと。

だから、延命措置は断った
静かに逝かせてください。と

そしてその日の夜はあたしが泊り看病することになった

お弁当とシュークリームと雑誌をもって
お母さんのそばにいた

お母さんがあたしを呼んだ
「どうした?」
「背中さすって」
「うん」

こことか?いいながら
泣くのを我慢した。

お母さんの体は骨と皮膚しかなく
いまでもその感触は手に残ってる。

そして彼氏の写真をみせた

「お母さん、あたしね、この人と結婚するんだよ」

「うん」

それ以上話すのはもう限界だった・・・
そして1時間後くらいに
お父さんのお母さんがきた。
いわゆる姑。すごくすごく仲が悪かった
姑のイジメが半端なかった
孫にはやさしかったけどね・・・

でも、お母さん
「ごめんなさい。すみませんでした。」と
もう声も出てないのに何度もあやまってて

もういいよ。もうやめてよ。おかあさん

と私は思っていた。

そして3時間くらいいっしょにいれた
彼氏も心配してたので
電話をかけにいった。

そしてきろうとした瞬間
看護師さんが私を呼びにきた。
そこにはお父さんと姉夫婦がいた・・・
もう母の意識はなかった。
深夜1:00
母は旅立っていった・・・・

そのあと、すぐ葬儀屋さんがきて
場所とか父と話あってた。

私はお父さんにいわれ
実家に帰った。

布団の中に入って
眠ろうとしても寝れない。

こんなひどい娘でほんとにごめん。
それしか言葉が思いつかなくて

声をだして一人でわんわん泣いた。

なんであの時、謝らなかったんだろう
なんであの時、手をつながなかったんだろう
なんであの時、優しくしてあげられなかったんだろう
なんで?
なんで?

あたしはほんとに最低な娘だ。

ほんとにごめんね
お母さんのことが

ちいさいころから大好きだったのに
甘えすぎてたんだよね。

だって

死んじゃうなんておもったこと
1度もなかったもん。

会いたいよ。会って謝りたい。

でも、もうできない。

難病だったお母さんをいやだと思ったことも
あった。
それはお母さんのことをバカにされていじめられたから。

でも、我慢した。一緒になってバカにすることなんて
出来なかった。

難病で子供を産むことすら大変なのに
あたしを産んでくれた。

それだけで感謝しなきゃいけないのに
亡くなってはじめて気が付くんだね。

お母さんあたしはお母さんが大好きです
生きてるうちに親孝行できなくてほんとにごめんね。
でも、お母さんの写真はちゃんとあるよ。
笑顔のおかあさん。
もっと笑わせてあげればよかったね。

成人式に貧乏なのに着物一式買ってくれてありがとう
その着物は大事にとってあるよ。

今、私は娘が2人。あと5年で成人です。

その時にはその着物を着せます

それがせめてもの私からの恩返しです。
こんなことしかできなくて
情けないけど

お母さん
私もお母さんになりました。
お母さんのように
優しくも厳しい
一生懸命家族のために節約して

天国から見てるお母さんを安心させたいです。

あたしを産んでくれて

ほんとにありがとう。

こころから感謝します。だいすきです。

お母さん。お母さん。また呼びたいな。お母さん・・・・

次女より