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更新日: 2012年11月2日

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父は私が赤ちゃんの時に私と母を捨てていきました。
母は病弱なのに関わらず必死で夜中まで働いていました。でも私はさみしいという気持ちはありませんでした。
それは、家で一人の私を気づかって祖父が毎日来てくれていたからでした。
小学生になって少したったくらいに父が帰ってきました。
家では両親は毎日喧嘩、いつも両親の中間に立たされどっちが正しいか決めろと求められる日々。
お互いの悪口を聞かされる毎日。
転校し友達も作り直し。
私の居場所はありませんでした。

自ら命をたつことを考えたこともありました。
しかし、唯一心の支えが土日に祖父の家に遊びに行き映画を見に行くことでした。いつも笑顔で迎えてくてれご飯を食べて映画を見るお決まりのコース。
でもいつも祖父は映画館でいびきかいて寝ていました。寝るなら映画じゃなくていいのにといつも思っていました。
ゲームが欲しいと両親に言えない私を察してゲームをもらってきてくれ土日は一緒に夜まで遊びました。
しかし中学生になり、部活で忙しい日々。
祖父に、電話で映画にいこうと言われていたのに『忙しいから今度ね。』といつも先延ばしにしていました。

祖父は幼い頃戦争の時の輸血で肝炎になっていて、この頃から入院を繰り返していました。

闘病している祖父、病弱な母を支えたくて看護学科ある大学に入りました。
このころ両親は離婚し、祖父は認知症になりました。
毎晩、近所を徘徊し『保護しました』と警察から私の家まで連絡が来る日々。
認知症なのに、私に『映画にいこう』と電話が何度もきていました。
看護学科の私は忙しく、なかなか『うん』と言えませんでした。
今度、大学が落ち着いたら行けばいいやと思っていました。

数えきれないほど入院、退院を繰り返していたため、また入院になっても『大丈夫、いつもみたいにまた退院できる』と思っていました。

でもこれが最後の入院でした。

強い薬で意識が朦朧としている祖父に私は『ずっと先延ばしにしてごめん、映画にいこう。』と言うと『映画いこう…また退院するから』といっていました。
私は涙がこらえきれず泣くのをみられたくなかったためそのまま病室を去りました。
次の日みんなで祖父の頭を洗ってあげました。
もう意識はありませんでした。
おしっこが出なくなって、もういつ亡くなるかわからないと言われましたが、祖父は一週間ほど頑張りました。

私も奇跡はおこると信じて声をかけ続けました。
○○の映画がみたいなー。みにいこうよ。と声をかけてももう反応はありませんでした。
涙でマスクがびちょびちょでした。

奇跡は起きませんでした。

私が辛い時にいつもそばにいてくれたおじいちゃん

私が自転車のれるまでゼーゼーしながら練習してくれたおじいちゃん

映画寝てたくせに、おもしろかったね!と笑うおじいちゃん

入れ歯を海で洗うおじいちゃん

いつも笑顔おじいちゃん

大好きなおじいちゃん

自分の都合で祖父を後回しにしてしまい、感謝の気持ちも伝えられず今だに後悔しています。

大切な人は失ってから気付くんじゃ遅いんだ、感謝の気持ちは伝えられる時に伝えなきゃ遅いんだと思いました。

不思議な事があり祖父が危篤になっている時にある男性と出会いました。
祖父が運命の人に合わせてくれたように感じました。
その人とは結婚の約束をしていましたが今、距離を置かれています。
わたしの大切な人
両親、彼、親戚みんな、友達。
みんな失ってから気付く事がないように大切に、大切にしていきたいと思います。

みなさんの大切な人誰ですか?