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更新日: 2012年11月27日

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私の父は、私が小さい頃から何度も何度も入退院を繰り返していました。

病気ではありません。

私の親父は、プロの競輪選手でした。
レースの事故で入退院していました。

当時の競輪選手には、防具もなく、薄手のライディングスーツ一着でレースに挑んでいました。レースは常に自分の生涯に直結するものだから、全てが真剣勝負なのだと教わりました。対戦相手を落車させようと挑む人もいたそうです。相手のハンドルを握ったり、タックルしたりと壮絶な闘争です。ある種、格闘技だとも教わりました。瞬間的には時速100キロ以上のレースで落車つまり転倒すれば、コンクリートに打ち付けられ大けがです。父の入退院は、レースで大怪我を繰り返していたのでした。

何度も電話で「お父様が、レース中の事故で危篤状態です。」と言われました。
意識もなく、暗い部屋でいくつもの管とコードに繋がれ、その先には、テレビでしか見ないような、大きな画面に刻む心電図がつながれてベッドに横になる父を、私は、ガラス越しでしか会えない日が続いたことが何度もありました。

幼稚園で「お父さんがきとくなんだよ」って言った記憶すらあるほどです。
そこまでして、父は、現役でトップクラスの成績にこだわっていたのです。

当時は現金で懸賞金としていくつもの札束を持ち帰っていました。

しかし、一つも自分を偉ぶったりしたことなどなかったです。東京の下町に住まいを設け、何人もの弟子を養っていました。

地域の人達に無償の奉仕をいくつもしていました。困ってる人がいれば、いつでもいくらでも話を聞きある時は保証人にまでなっていました。そんなお人好しな父でした。

父が亡くなる半年ほど前、神奈川のレース場で落車しました。頭をうち、意識不明な状態が数日つづきました。高校の入試試験の真っ最中で私は、お見舞いにもあまりいけませんでいたが、このまま、引退するよう協会から言われたようですが、私の為に、もう一度レースに出るため再起をかけ、リハビリに励み、2ヶ月とすごい回復力で退院したのです。

しかし、プロスポーツの世界で50代で事故に会い、意識不明の重体から数ヶ月の入院、体づくりから初めてまた再起を目指す事は、はっきり言ってあまりにも無謀だったのかもしれません。父のところに協会のお偉いかたが止めていたことを思い出します。本当に相当つらかったに違いないと今はわかります。

当時の私は、父に対し反抗的な頃でした。バイクの免許をどうしても取得したいのに、許可してもらえずイライラしてました。身勝手な息子でした。それでも、父は常に私に寄り添ってくれていました。朝早くから身体を鍛えていてそれも20代前半の弟子と一緒に真剣に向い合ってもいたのです。ものすごく疲れていたはずです。そんな中、僕が夜遅くまで勉強してると同じ部屋で僕が寝るまで座っていました。うざかったが本音でした。父の偉大さを今になって思い知っています。今は、父を本気で誇りに思います。

でも私は、父を恨んでいた時期があります。父の苦しむ記憶から抜け出せず、私は病になりました。精神疾患です。でも、それは、自分の課題であり、父の責任ではないのです。恨んでいた時期を後悔しています。

偉大な父のことを、僕が讃えてここで皆さんに伝えることで父が喜んでいるように思います。

そして、私は、毎日を全力で生きて!立派な姿になって来世で必ず直接父に「ありがとう!」って言います!