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更新日: 2012年11月13日

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成人式まで頑張って生きると約束をした祖母を亡くして三年になります。

祖母はとにかく他人の為に動く人で「情けは人の為ならず、巡りめぐって我が身にかえる」っと教えてくれました。そんな祖母と一緒に住むようになって、色々な思い出がありました。

孫想いの祖母でもあり、良くしてくれたり私が部活動や体育祭で活躍してるビデオをみて凄く喜びほめてくれてたのを今でも思い出します。

しかし祖母との生活になれてくると時々祖母の存在が嫌になったり八つ当たりをしたりなど 、とうてい自慢の出来る孫ではありませんでした。

なのに祖母はどんな時でも、私の味方でした。私が落ち込むと「お婆ちゃんはほのかが頑張っているのを知ってるからね、ほのかなら出来るよ、大丈夫。」と言ってくれたり時には一緒に泣いてくれました。

そんな祖母が倒れたのは私が高校に入学してすぐの頃でした。最後に交わした言葉は「行ってきます」「気をつけて行ってらっしゃい」でした。私は病院で祖母の姿を見たとき泣きました。

医者からは言葉を話すことは出来ないし右半分の手足は動かすことも出来ないと言われ、余命宣告もされました。私は現状について行くことが出来ませんでした。退院して施設に入った祖母。

一番辛いはずの祖母は言葉は話せなくても私たちがくる度に笑っていました。辛いリハビリも一生懸命に取り組み手足が動かせるようになり、言葉も少しずつですが話せるようになりました。

そして何より余命宣告より二年も生き延びました。しかし、私は祖母を見てるとどうしても泣きたくて。。

堪える為に話すこともあまりしませんでした。ある時、施設から帰ろうと祖母に「また来るね」と言ったらぐずり、機嫌がなおったかと思いきや珍しく私たちの姿が見えるまで手を振っていました。

これが祖母との最後でした。危篤と聞いて病院に駆けつけた時に祖母の目には涙がたまっていました。私は祖母の手を握り「お婆ちゃん」と必死に大きな声で呼び続けました。

しかしそれも虚しく 、私たちの到着を待ってたかのように祖母は逝ってしまいました。私は冷たくなっていく祖母の手を一生懸命擦りながら「お婆ちゃん、起きてよ」と言い続けました。

死に化粧をし、棺の中に入ってる祖母の顔は穏やかでした。夜になり、祖母の傍で私は今までの心情を全て吐きました。

そして謝りました。お婆ちゃんが私にお金を渡して「何か甘いものを買っておいで」という時は、お婆ちゃんが何か甘いものを買ってきて欲しいという合図だったんだよね。

察することもせず行かなくてごめんね。散歩も一緒に行けば良かったね。一人で寂しかったよね。もっと相談にのってほしかったんだよ。聞かせたい話しも沢山あったんだよ。

素直になれなくてごめんね。気付けば泣いていました。火葬が終わり納骨を済ませ祖母の家や施設に行きました。どこかに祖母がいるんじゃないかと探しました。

「よく来たね」と笑って いるんじゃないかと。でも、何処にも居なかったんだよね。でも、夢に笑って出てきてくれたよね。。今思うと、祖母は祖母なりに一生懸命約束を果たそうと頑張り、寿命を全うしたんだと思います。

だから今度は天国にいる祖母が恥じないような生き方をしなくちゃと思うようになりました。今年の就活試験で私は全部落ちしました。初めての挫折で荒れました。

もし祖母が生きていたら、私に落ち込んだ時の言葉を掛けて一緒に泣いてたんだろうなと想像しながら遺影をみて泣きました。

祖母は私に諦めず努力をすれば、した分だけの結果がかえってくることを教えてくれました。浪人して来年もう一度、頑張ってみようと思います。

落ちたとしても笑って「こんだけやったし後悔はないよ」と笑って報告できるように。

色々と大切なことを教え、気付かせてくれた亡き祖母に感謝です。

お婆ちゃん、やっと来年の1月が私の成人式だよ。
お手紙を書いて読むから聞いててね。

そしてありがとう。